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2017年 10月 29日

カラヤン/BPO の「白鳥の湖」。

f0080947_20353971.jpg■ 私が次にカラヤン箱から取り出したのはチャイコフスキー「バレエ組曲『白鳥の湖』『眠れる森の美女』」ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1971, DG)。なんだこれは …。演奏が凄すぎて意味が分からない。そして、↓の文章はもっと意味が分からない。亡き宇野功芳氏の『名演奏のクラシック』で引用されている玉木正之氏の言。

 「何よりも、彼の引き出したサウンドが、心に残らないのが不満だった。軽快なテンポと、豪快な迫力と、麗々しまでの美しさとが、不思議なまでに共存し、一点の翳りもミスもない爽快感を与えてくれるアンサンブルの裏から、このくらい簡単なものよ、という声が聞こえてくるように感じた」。

■ ど・こ・が? この「白鳥」のどこを聴いたらこんな言葉が出てくるんだろう?私がこの「白鳥」から聴くのはこの言葉と全てが逆だ。カラヤンとベルリン・フィルという世界最高の芸術家たちが死力を尽くして芸術の無限の高みへと駆け上がろうとする鋼鉄の意志、それだけだ。それがジークフリート王子とオデットの結ばれない悲劇的な激情とシンクロしてしまったこの演奏の凄さたるや、これ以上に強烈な演奏と録音と音楽があるのか。いや、あるに違いないし、無数にあるのは分かっているが、しかし … 。カラヤン/BPO にしてみれば朝飯前どころか寝てても弾けるにちがいない(だってバレエの伴奏なのだ)この「白鳥」をここまで駆り立てる動機はいったい何だったのだろう?この時カラヤンは63歳なのだ!ウソだろ!(日本だと定年だ)。

■ そういえば、私はベルリン・フィルほど全身全霊で演奏するオケを知らない。カラヤン自身は「演奏家が冷静なのに、観客が熱狂してこそ一流」と言ったというが、私が最初にベルリン・フィルを聴いて衝撃だったのは、演奏する団員が大きく体をうねらせながら、ものすごく感情を入れて演奏するその姿勢だった。世界最強が義務付けられたオケの凄さに叩きのめされた(指揮はアバドだった)。そういうベルリン・フィルの DNA をこの演奏から感じる。「簡単なものよ」などという弛緩や油断は全くない。

■ それにしても、このオケの個々の楽器の凄絶な美しさはどうだろう。「情景」冒頭、圧巻のハープとオーボエ。そこから飛び込んでくる弦の完璧さ。「ワルツ」の爛れるような美しさと剛毅さと絢爛さ。絡みつき彩りを添える木管群の見事さ。シュヴァルベのソロ。この録音に演奏者たちのクレジットがあったらどんなに良かっただろう。ラストの「フィナーレ」の全軍挙げての咆哮は音楽世界の極限であるかのようだ。

■ この「白鳥」の後に続くのは、夢と恍惚が結晶化したような「眠れる森の美女」。カラヤンの演奏が表面的とか精神性が無いとかよく言ったものだが、そんなことはどうでもいい。私にとって大事なことは、この演奏を聴いている間、私が生きている現実世界で起こる悲しく腹立たしい数々のことを「そんなことはこの演奏の高みに比べれば無に等しいではないか」と思わせてくれることであり、そして、この虚しい現実世界で戦っていく勇気をまたもらえることなのだ。

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by thinkclassical | 2017-10-29 22:28 | HvK
2017年 10月 27日

カラヤンの「ハンガリー/スラヴ舞曲集」。

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■ ここ10年くらい、通勤の時くらいしか音楽に触れることができなくなった関係で、音量幅の大きいクラシック音楽を聴く機会が減ってしまい、テクノとかロックとかジャズとかポップスとか映画音楽とかばっかり聴いていました。コンサートもちょこちょことは行ってましたが、昔ほどではなく、なんか毎月歌舞伎とか見に行ってました(歌舞伎ってオペラに負けず劣らずぶっ飛んでるんですねw)。

■ そんな私がクラシックの世界にやとこさ戻ってこれたきっかけは例のカラヤン箱のおかげ。何か軽く聴いてみるかな、と取り出した紙ジャケはブラームス「ハンガリー舞曲集」ドヴォルザーク「スラブ舞曲集」ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959, DG)。どうしてこれまで「いいからお前はとにかく黙ってこれを聴け」って誰も言ってくれなかったんだろう。ハンガリーとかスラヴとか舞曲とか、そういう枕詞は一切いらない。これは魂のハードロック以外の何物でもない。人類が到達した最強の音の豪華さ、華麗さ、美麗さがここにある。カラヤンの華麗さを「表面的」と言って切り捨てる人は、例えば「華麗さ」と「孤独」がアマルガムとなった時、どれだけ底知れぬ悲劇の予感が描写されるか感じ取れないだけなのではないだろうか ... 例えばこの CD の「スラブ舞曲第10番」のように。ここでは、あの手垢にまみれた「ハンガリー舞曲第1番」は、暗い運命の中でもがき苦しむ激情にしか聞こえない。そして、カラヤンは細かな楽器の表情にどれほど気を配っていることだろう。もう自らの不明を恥じるしか無い ...。

■ と反省しつつ、カラヤンの演奏を聴き始めたわけです。それでだんだん分かってきたのは、カラヤンの演奏には確かに「表面的かつ機械的」と取れなくもない演奏があるということ。ところが、それと拮抗するような形で極めて「人間的」なパトスに裏付けされた演奏も数多くあるということですね。前者だけを恣意的に取り上げて切って捨てるのははっきり愚かだと私は思います。そしてカラヤンが到達した「華麗さ」が持つ凄みや本質を理解するのもまた難しいのだ、と。








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by thinkclassical | 2017-10-27 00:24 | HvK