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2017年 10月 27日

カラヤンの「ハンガリー/スラヴ舞曲集」。

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■ ここ10年くらい、通勤の時くらいしか音楽に触れることができなくなった関係で、音量幅の大きいクラシック音楽を聴く機会が減ってしまい、テクノとかロックとかジャズとかポップスとか映画音楽とかばっかり聴いていました。コンサートもちょこちょことは行ってましたが、昔ほどではなく、なんか毎月歌舞伎とか見に行ってました(歌舞伎ってオペラに負けず劣らずぶっ飛んでるんですねw)。

■ そんな私がクラシックの世界にやとこさ戻ってこれたきっかけは例のカラヤン箱のおかげ。何か軽く聴いてみるかな、と取り出した紙ジャケはブラームス「ハンガリー舞曲集」ドヴォルザーク「スラブ舞曲集」ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959, DG)。どうしてこれまで「いいからお前はとにかく黙ってこれを聴け」って誰も言ってくれなかったんだろう。ハンガリーとかスラヴとか舞曲とか、そういう枕詞は一切いらない。これは魂のハードロック以外の何物でもない。人類が到達した最強の音の豪華さ、華麗さ、美麗さがここにある。カラヤンの華麗さを「表面的」と言って切り捨てる人は、例えば「華麗さ」と「孤独」がアマルガムとなった時、どれだけ底知れぬ悲劇の予感が描写されるか感じ取れないだけなのではないだろうか ... 例えばこの CD の「スラブ舞曲第10番」のように。ここでは、あの手垢にまみれた「ハンガリー舞曲第1番」は、暗い運命の中でもがき苦しむ激情にしか聞こえない。そして、カラヤンは細かな楽器の表情にどれほど気を配っていることだろう。もう自らの不明を恥じるしか無い ...。

■ と反省しつつ、カラヤンの演奏を聴き始めたわけです。それでだんだん分かってきたのは、カラヤンの演奏には確かに「表面的かつ機械的」と取れなくもない演奏があるということ。ところが、それと拮抗するような形で極めて「人間的」なパトスに裏付けされた演奏も数多くあるということですね。前者だけを恣意的に取り上げて切って捨てるのははっきり愚かだと私は思います。そしてカラヤンが到達した「華麗さ」が持つ凄みや本質を理解するのもまた難しいのだ、と。








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by thinkclassical | 2017-10-27 00:24 | HvK


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